オランダのMBAで、キャンパスに住んでいた頃。
課題に追われ慢性的に寝不足の中、休みの朝、貴重な睡眠時間を削って、教会の礼拝に出かけていくキリスト教徒の友人の姿が、理解しがたく、私にはとても不思議だった。
ガーナに住んでいた頃も、規則正しく、週末に教会に通う人々に、
彼らにとって、「教会で祈る」ということの意味は何だろうと思ったものだ。
強盗犯が教会で捕まったという、何ともガーナらしいおバカなニュースに
祈れば罪が許されると思っているのかと(そういう教えではあるか)、
日本にいるとあまり意識をしない、「信仰心」というものに、俄然、興味を引かれた。
私には理解し難い、しかし、多くの人々の根ざされた「信仰心」を、ちょっと遠くから傍観していたのだ。
教会で祈るということは、「神頼み」なのだろうか?
私には、それは、自分で努力しない他力本願な行為のように思えた。
「今」は、自分の行動の結果であって、人生は、自分の行動次第で変わるものだと思っていた。
しかし、私の「信仰心」に対する謎は、がんになったことで、思いがけず答えを得た。
転移に注意するように再三医師に注意されて退院した後のことだった。
お風呂に入り、顔を洗っている最中に、これまで感じたことのない痛みを首付け根に覚えたのだ。
これが、「転移」なのだろうか?
浮かんだのは、病棟で見た放射線治療や抗がん剤治療をした人の痛々しい姿だった。
これ以上の治療は、絶対に、したくない。
これまでに感じたことのない恐怖に襲われ、
そこで初めて、私は、神に祈った。
その神が、キリストなのか、仏なのか、アッラーなのか、わからないけれど、
人智を超える存在の何かに、祈ったのだ。
人は、コントロールできないことに遭遇した時に、
神に守られていると思うことが必要なのだと、
ようやく、他人事ではなく、実感として理解できたのだ。
そうして、心の中で、「大丈夫。私は大丈夫」と守られているから大丈夫だと繰り返し唱えることで、信じることで、その恐怖心は落ち着いていった。
先進国よりも、新興国、現代よりも中世に信仰心を持つ人が多いのは、
自分ではコントロールできないようなことが起こる厳しい環境下で暮らす中で、
心の拠り所が必要だからだろう。
それ以降、私は、神を感じられるようになった。
何か決断や選択をする際に、全てを自分で背をわずに、
流れに任せてみる、結果を「神にゆだねてみる」ようになった。
自分が望む方向へ結果を導こうと、強くコントロールするほど、
思いがけない結果になった時に、苦しい。
でも、その意外な成り行きに、実は、自分が想像しなかった幸運が隠されているかもしれない。
そう考えられると、どうなっても大丈夫と、心が軽く、
以前よりも、楽に生きられるようになった。
時には、神にゆだねてみる。