ロシア機墜落、レバノン、ベイルート郊外の自爆テロ、パリのテロ…
飛行機や電車、バスに乗る度、カフェやレストランに行く度に周りを見渡して怪しい人物がいないか訝しがらなければならない恐ろしい世界になってしまうかもしれない。
対岸の火事ではない。
自らの命を捨てることを顧みない自爆テロ覚悟のテロリストを前にはしては、どんなに警備を強化しても防ぎようがない。
独裁者を支持するつもりはないが、皮肉なことに、独裁者の支配下にあったときのほうが治安を維持できる国もあるのではないかと思う。民主主義を根付かせるだけの土壌が用意できていない場合だ。
以前、そんなことをオランダのキャンパスでもディスカッションしたっけ。
自分たちの力だけでは対抗できない反勢力派に武器を与えて影から西側諸国が支持する・・・という方法があちらこちらでとられてきたけれど、その結果、独裁者が倒れたあとには更に悲惨な状況に陥いることが多い。
体制を壊すだけ壊しても、新たに生み出し立て直すことができないのだ。
その混乱や隙に、新たな火種があちこちで勃発してしまう。
自分たちの力だけで改革を行うだけの力がないということは、まだ変化を受け入れる状況にないということなのかもしれない。
憎しみからは、何も生み出せない。
既存の体制からは、反逆者とみなされ弾圧されてきた改革者たちは、ガンジーもキング牧師も、ネルソン・マンデラも、憎しみを超越していたからこそ、生み出すことができたのだ。
無差別テロが罪のない人の命を奪うだけで、何にもならないことに気づかず、その連鎖を断つことができないのはなぜだろう。
雨模様も加わり、悲惨なニュースにどんよりしながら、答えのないとりとめもないことを考えてしまう。