俳優の三浦春馬さんが亡くなったという訃報を母から受けて驚いた。
恵まれた容姿に、仕事もとても順調で、
はたから見れば、羨ましいぐらいの人生が約束されたような人だったから。
今年初めに、主演映画でアカデミー賞を受賞したシンシア・エリヴォと、グリーのマシュー・モリソンと、彼が共演するミュージカル・コンサートを母と一緒に観に行った。
類まれな歌唱力を誇るシンシアと、
オーディエンスを巻き込むパフォーマンス力を持つマシューの2人と同じ舞台に立つなんて、
とてつもなく光栄なことだけれど、
荷が重いだろうなぁなんてと思いながら、彼のパフォーマンスを観たことを覚えている。
でも、当の本人は、とても、笑顔が素敵でキラキラしていて、
プレッシャーを前向きに楽しめてそうに見えたし、
すごく練習して努力していることが、丁寧なパフォーマンスからもひしひしと感じた。
その印象が残っていたので、「どうして?」と、本当に残念でならない。
うちの母は、自殺で人が亡くなるニュースが流れる度に、
「バカだね」と、幼い頃から私たちに言ってきた。
「そんなことで死ぬなんて、バカだよ」
亡くなった人に対して失礼だと思う人もいるかもしれないけれども、
決して、「辛かったんだろうね」など、肯定することがなかった。
相手の心情を慮って同情しても、必ず、最後に、
「でも、バカだね」と言う。
「いつか嫌でも死ぬんだから、自分で死ぬことない。死んだら、終わりだよ」
そう言われて育ってきたせいか、どんなに辛くても、
「あ〜もう、何もかも捨てて消えてしまいたい」と思ったことはあるけれど、
「死にたい」という言葉で、その発想を抱いたことは一度もない。
長年の刷り込みのおかげで、「死にたい」という言葉が、私の中に存在しないのだ。
言葉が存在しないと、選択肢としても存在しない。
どちらも気持ちとしては近しいものがあるのかもしれないが、
実際に言葉として思い浮かべたり、発するのと、言葉が存在しないのとでは、雲泥の差がある。
Watch your words, they become your actions
言葉に注意しなさい。その言葉は、あなたの行動になるから
というマザー・テレサが伝えたと言われる言葉がある。
よくその言葉が思い浮かんでいると、ふとした瞬間に、その言葉に傾倒してしまう。
どうしようもなく追い詰められていたという場合もあるけれども、
人間には、ふと、魔がさす瞬間というのがあるのだと思う。
その狭く暗い箱に入ってしまった時に、そこから連れ出してくれるきっかけって、
実はちょっとしたことだったりする。
ただ、その箱から一人で自力で抜け出すのは、難しいんだよね。
一度、箱から出てしまったら、
たいしたことないってあとから気がつくかもしれないけれども、
死んだら、終わりだからね。
死ぬほどのことなんて、実際には、ないんだよね。
だから、今、生きていられるわけだから。
だからこそ、生物としては、「自分で死ぬなんてバカ」が正解だと思う。
自殺のニュースが流れると、触発されて、更に、自殺する人が増えるという。
日本には、選択肢として当たり前のように自死が溢れすぎている。
死者を冒涜しない日本の美徳があるが、
真面目すぎたとか、ピュアすぎたとか、頑張りすぎたとか承認しないで、
バカだねと言って、
どんどん「自死」という選択肢自体を、この社会からなくせたらいいのではないか。
命ある限り、生きる。
とりあえず、生きる。
どうせいつか嫌でも死ぬんだから。
だから、とりあえず、適当に生きていればいい。