先日、「俺は、フェミニストだ」というイギリス人を相手に議論になった。
フェミニストって、エマ・ワトソンとか、女性の権利がなんたらって主張するヤツでしょ。
なんだか面倒臭い。
と、なぜだか、苛立った。
自分も女性なのだから、女性の権利を擁護、拡大派というのは、私にとっても悪いことではなかろうに。
「女性と男性はまだまだイコールじゃない。 CEOの割合を見れば、一目瞭然じゃないか。女性は、出産などで休まなくてはならない期間があるから、出世しにくい。それは平等じゃない」
私は、企業に勤めていたこともあるけれども、女性だからという理由で不当に評価されたことがあるとは思っていない。
むしろ、「女性なのに、すごいね」と、別に、女性がそれができるからすごいってわけではないと思うのだけれど、好意的に評価されることが往々にしてある。
女性だから得していることも、いっぱいあると思っている。
だから、トータルで見れば、プラスマイナスゼロじゃないかな?と。
「それは、そのポジションを望む女性が、そもそも少ないからよ。私の友人にも、働きたくないから主婦になりたいと言って、主婦になった人がいっぱいいる。性差が原因で正当に評価されなかったと言っている人は、単に仕事ができないだけよ。私は、そんな理不尽さを感じたことはないし、だいたい、女の私が言うんだから、そうなのよ」
と、ついつい食ってかかってしまった。
あとになって、何にそんなに自分はイラついたのだろう?と考えてみた。
よく考えてみたら、新卒後、すぐに働いた銀行では、同期の男性は、お茶出しはしないのに、私も営業職だったけれども、お茶出しは、女性の私たちがした。
いつも、申し訳なさそうに頼む同期の男性に、悪い気は全くしなかったけれども、女性がお茶出しをするという暗黙のルールに、面白くないなと憮然とした想いを抱いたことがあったことを思い出した。
でも、まあ、小汚い男性(笑)がお茶を出すよりも、若い女の子が出す方が、お客さんとしても嬉しいものかと、別になんてことないことだと考え直したものだ。
よくよく考えてみれば、だいたい、一般職、総合職という区分の仕方は、日本特有だし、今では、総合職に女性もいるけれども、一般職に男性はいない。
という、現実を考えると、まあ、確かに「差」はある。
でも、差別と区別は、また違うものだとも思う。
そして、以前観た、英国の公民権運動に関わった女性の物語の映画を思い出した。
女性は、夫の所有物で、離婚すると子供に面会することもできなかった。選挙権もなかった。
これは、明確な、差別だ。
でも、今は、もちろん「差異」はあるけれども、「区別」に近いところで、女性にも可能性は開かれているわけで、確かに、男性よりも努力が必要かもしないけれども、アンフェアだと主張するヒマがあったら、自分で乗り越えられる程度の「違い」だと思う。
だからこそ、この時代で、あえて女性の権利を主張することに違和感があったのだ。
そんなこと、グダグダ言うくらいなら、圧倒的な実績をあげて昇進でもすればいい。
人は、誰しもアンフェアな状況を乗り越える強さを持っていると、私は、信じたいのだ。
苛立ちの原因は、自分の心の琴線を反映していることが多い。
と、同時に、今、子どもを持っても働く女性が増える中で、毎日、お弁当作りのために夜遅くに準備する、朝早くに準備して出かけるという女性の話を聞くと、本当に頭が下がる。
女性が毎日お弁当を作っても、「当たり前」で、男性が、週に1回お弁当作りをしたら「賞賛される」から、やっぱり、確かにそれはフェアじゃない気もする。
機会というよりも、世情が変わっているのに、従来の習慣、思想のせいで、囚われがちなケースはある。
今の日本の働くママは、間違いなく、他のどの国で働くママよりも負担が大きい。
キャラ弁なんてなく、バナナとサンドイッチ持たせれば、十分なお弁当になる欧米の働くママとはえらい違いだ。
日本人は、ついつい頑張ってしまうから、完璧にやろうとして、手を抜けずに、頑張りすぎて疲れてしまうように思う。
そんな女性が、もっと自由に囚われずに生きられるようになればと思う自分は、
なんだかんだ言って、
フェミニストってヤツなのかもしれない。
ちょっと認めなくてはならないかも、と思うようになりました(笑)